『命の絆、生の悲哀』――川端康成
『命の絆、生の悲哀』――川端康成
著:清野 義人(小笠原 義人)
しとしとと降るにわか雨が、四条通に赤や緑の入り混じる傘の花を咲かせている。祇園の夏至は、どこかいつもより悪戯(いたずら)っぽい。
![]() |
| 先斗町の日中の様子 |
花見小路の傍らに佇む料亭の門前では、客を呼び込む女将と三毛猫がじっと見つめ合っていた。
茶室「伊藤久右衛門」の角を緩やかな足取りで曲がると、黒髪を切りそろえた二人の女子高校生が向こうから歩いてくる。天真爛漫な笑顔。その手には自販機から取り出したばかりのオレンジソーダ。擦れ違いざま、髪に残りし残り香が鼻腔をくすぐる。……米粉のたこ焼き? ああ、青春の息吹とはこれほどに素晴らしいものか。周囲の空気までが、甘く無垢に感じられる。
真昼間から酒を飲むなど、世間からは中毒だの没落だのと嘲笑されるに違いない。それでも私は執拗に、二階にあるバーへと足を踏み入れた。「Koto」(古都)と草書体で書かれた看板には、見つめているうちに、どこか、歳月の荒波を潜り抜けてきたような、斑駁(はんばく)たる滅びの美しさが滲み出ていた。
扉を開ける前、何気なく目をやった。新発売の「Toyota bZ4X Touring」。ふん、バーテンダーの奴、また車を買い替えたな。冷徹で重厚なマットゴールドの車体、テクノロジー感溢れる純電動の動力。店休日には、またあいつを転がしてビーチへと直行するのだろう。
ふっと冷笑が漏れた。なぜなら、私の払う酒代もその車の一部へと貢献しているのだから。
「人間は過去の日々へと、絶えず消え去っていくものだ」
不意に、胸の奥を突き刺すような痛みが襲ってきた。かつて編集者に容赦なく踏みにじられた、あの原稿の記憶が蘇る。
XXX
『命の絆、生の悲哀』
川端 康成(Yasunari
Kawabata)
いかなる客観的意見をも否定する、和風「新感覚派」の旗手であり、日本人として初めて「ノーベル文学賞」の栄誉に輝いた不滅の文豪。その筆致が描き出す繊細な機微、空寂、そして彷徨(ほうこう)は、読者の心を揺さぶり、いつまでも覚めない余韻の中に閉じ込める。しかし、宿命という名の見えざる鎖に縛られるかのように、川端もまた、他の文壇の巨匠たちと同様、決して満ち足りた、あるいは順風満帆な幼少期を送ったわけではなかった。
明治三十二年(1899)六月、彼は大阪に生まれた。
傾きかけた地方の豪族の血を惹きながらも、三歳になる前に実の父母を相次いで亡くし、幼い川端は祖父母の手によって育てられることになる。しかし生来の身体の弱さゆえ、外界とは隔絶されたような日々を過ごした。それは長輩の深い愛情ゆえの過保護であったかもしれないが、同時に彼の中に、後年の孤独、憂鬱、あるいは徹底的な絶望へと傾倒していく性格を形作ることとなった。しかし、川端家の家系図を遡れば、その先祖は七百年前の鎌倉幕府において、名門・北条氏を支えた著名な武将、北条泰時の直系血脈にあたる。
うら若き学舎の時代に入っても、彼の運命が反転することはなかった。それどころか、まるで悲劇の道化師が、神仏に見放された無力さを独り舞台で嘲笑うかのように、心の支えであった姉、そして祖父母までもが、一人、また一人と川端の元を去っていった。
天涯孤独。死の陰影が幾重にも押し寄せ、哀哭の怨嗟が暴風のように吹き荒れる中、彼は『源氏物語』を繙(ひもと)くことで、文字によって築かれた文学の世界へと静かに逃げ込んだ。書物の外にある五濁(ごじょく)の世、そして段落の隙間に垣間見える一塵の汚れもない世界。川端は自らの孤独な筆を通じて、限られた命の中に残された、わずかな無形の甘露と栄養を貪るように吸収し始めた。そして、世間が言う客観的、あるいは積極的という名の偽りの慰めを完全に捨て去り、真摯な感情をすべて「過去」という名の墓標へと埋葬することを選んだのである。
朽ち果てていく肉体は枯れ枝の如く。川端は毅然としてその魂を火に焼かれる生贄へと変え、方寸の間に宿る、生き抜くための勇気を支える巨大なエネルギーへと捧げた。
(ちっぽけな)文字へと。
XXX
川辺から這い出てきた異形の生物のように、少し禿げ上がった中年男が不躾な欠伸(あくび)を噛み殺した。ちっ、と舌打ちの音が響く。爪楊枝を咥え、今しがた鰻重でも平らげて帰ってきた編集者だ。その口元に浮かんだ嫌悪と侮蔑は、川端先生への軽視なのか?
それとも、私の文字に対する敵意なのか?
XXX
十六歳の年、川端の詩や短編作品が相次いで新聞(『京阪新聞』など)の紙面を飾るようになる。生来の陰気さと、随所で心のうちの苦痛を押し殺すような彼であったが、同性の友人が寄せる日常を超えた慈愛と抱擁の中で、人生で初めて、心身ともに解き放たれる瞬間を味わうこととなる。
愛?
寂寥の家から生まれた孤児が、貪欲に求めた禁断の果実。それは『少年』という名の軽狂であり、反逆であり、救済であった。そして同時に、霊肉が一つに溶け合う半夢半醒の戯れでもあった。
大正九年(1920)、川端は第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部へと進学する。
翌年、小説『招魂祭一景』を発表。文壇の先達からの称賛と推薦を受け、彼は主流の雑誌社から原稿の執筆依頼を受けるようになる。
「お別れいたします、さようなら。」……十五歳の伊藤初代。それは川端が二十二歳の時、結ばれることのなかった婚約者であった。カフェでの運命的な出会い、互いに坎坷(かんか)たる境遇を歩み、家庭の温もりを知らずに育った、いわば「天涯の同病相憐れむ者」同士であった二人。しかし、女方から突如として届けられた一通の婚約解消の手紙。歓喜の絶頂から失意のどん底へと突き落とされるまで、わずか一ヶ月足らずの出来事であった。この引き裂かれるような衝撃は、川端を深い困惑と遺憾、そして悔恨の淵へと沈めただけでなく、その後の彼の生涯における執筆スタイルを決定づける重大な転換点となった。
(初代は後年、13歳年上の浅草のカフェ「カフェ・アメリカ」の支配人と結婚し、二人の子供を設けた。しかし、巷の噂や、後に初代の子供たちが遺した証言によれば、川端の婚約者は寺院に滞在中、身元の知れない男から性暴力を受け、心に深い傷を負って家出し、その結果として、先生への決別の手紙を綴ったのではないかとされている。)
「あなた(川端)は或いはこの事を追窮なさるかも知れませんが私は死んでもお話し致しません……私は二人の過ごした時間を決して忘れません。今、私は去ります……さようなら、永別です」――〈初代から川端への手紙〉より。
幼子と成人の狭間に位置する純真な少女に対して、どこか病的なまでに執着し、一塵の汚れもない聖母の如き絶美の憧憬を抱くこと。あるいは、女性という存在そのものに対して特殊な愛着を抱くこと。それは去りゆく初代の背中だけでなく、おそらくは早逝した実母への追憶の投影でもあったろう。しかし川端は、永遠なる華の命を歌ったのではない。彼は、ただひたすらに「永遠の刹那の美」を捕らえようとしたのだ。なぜなら、その刹那の瞬間において、所有から喪失へ、縁起から幻滅へと向かうプロセスの中にこそ、彼は真の「日本の美」を伝承し、再定義したからである。それこそが、――「物哀(もののあわれ)」である。
空、無、滅。この文化においては、「死」という言葉さえも、何という優雅さを纏うことか。
大正十五(1926)年一月、短篇小説『伊豆の踊子』が『文芸時代』に初出を飾る。川端は十九歳の時に自ら経験した旅の光景を、一つ一つ文字へと昇華させていった。胸の奥深くに直に届く共鳴の筆致と叙述の技法をもって、自らの文学的解釈における価値観と信念を確固たるものとしたのである。
「私」と踊子(薫)の、刹那の邂逅。
「旅」とは、人間が自己を見つめ直し、生命の鼓動を実感するためのプロセスである。しかし、神経が細やかで、異常なまでに敏感な文筆家にとって、「我が家にいるような安らぎ」を旅先で得ることは極めて困難であり、ゆえに、一歩家を出た瞬間から、あらゆる場所に不安定さと彷徨が満ちている。……しかし、旅芸人との出会い。旅の道連れ、あるいは知音(ちいん)か。その眼差し、仕草、あるいは些細な一言が、これら彷徨える文学者たちの心に、至高の慰藉をもたらす。故に、旅情の文字が紡ぎ出す百景の足跡は、目に映る視覚的な感動であると同時に、自らの内面を抉り出す告白であり、独白に他ならない。
『伊豆の踊子』の出版は、文壇の注目を集めただけでなく、昭和八年(1933)以降、六度にわたる映画化や演劇の舞台となり、近代日本人が最も愛し、親しむテーマとなった。田中絹代、美空ひばり、吉永小百合、そして山口百恵。時代を彩った歴代のアイドル、巨星たちが、それぞれの「薫」を艶やかに演じてきた。
累計発行部数338万部。それが『伊豆の踊子』新潮文庫版が打ち立てた記録(2022年時点)である。たとえ結末がめでたしめでたしで終わらず、生涯二度と会うことのない悲劇的な別れであったとしても、涙の中に混じる甘美で虚無的な余韻こそが、人生の避けがたい無常――東西南北、満ちては欠ける人間の宿命――と響き合っている。
一触即発の戦火が渦巻く乱世において、文学者は常に先知(預言者)としての重圧と十字架を背負わされる。川端もまた例外ではなかった。凡夫の肉体に宿る鬼獣の如き醜悪さと残虐さを悟りながらも、人間性の奥底にある神仏の如き孤高と慈悲をも理解していた。ゆえに川端は、他国を併呑し「大東亜共栄圈」を築こうとする日本軍部の野望に対して、一貫して極端な反対の立場をとり続けた。
昭和十一年(1936)、彼は反戦の意思を示すため、即座に「執筆中断(筆を折る)」を発表する。当時、小説『雪国』はすでに雑誌での連載が始まっていた。
翌年七月、日本軍は北京南西郊外の盧溝橋を包囲し、宛平城への砲撃を開始。「北支事変(盧溝橋事件)」の勃発である。
昭和十五(1940)年、「日本文学報国会」が設立され、川端らの作家も発起人として名を連ねる。半年後、『満州日日新聞』の招きに応じ、彼は日本の管轄下にあった満州へと赴いた。吉林、奉天、ハルビンなどを巡り、現地の作家たちと交流を重ねる。
大東亜戦争(真珠湾攻撃)が勃発する直前の昭和十六年(1941)十一月末、日本が国際的な大戦へと突入するであろう機密情報を察知した彼は、自費で中国の北京や大連一帯を慌ただしく巡り、執筆素材の収集にあたっていた。関東軍が日本を殺戮の戦火へと引きずり込もうとしている現実を知り、川端は、恐るべき悲劇が近い将来、必ずや降臨するであろうと直言した。
昭和二十年八月。連合軍の原子弾が広島と長崎の二つの都市に投下され、数十万の尊い命が一瞬にして灰燼に帰した。神風特攻隊として飛び立った若き勇士たちは、二度と還ることはなかった。「玉音放送」による無条件降伏は、放射能を帯びた黒い雨が降り注ぐ枯死の局面に打たれた、一筋の虹であったのかもしれない。
先生が遺した短い随筆の一節には、こうある。「廃墟の中に漂う、異様に鼻を突く焦げ臭い匂い、息が詰まるような静寂……それは絶望的で、単調な光景であった。」これこそが、文人の筆による戦争の最も惨烈な直白(告白)であり、往復し輪廻を繰り返す歴史の冷酷な教訓であった。愚昧なる蒼生は、煉獄の門閂(かんぬき)が、毎度、自分自身のこの手によって静かに引き抜かれているという事実を、とうの昔に忘れてしまっている。いつだって、そうなのだ。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に列車が止まった。」
二年後、日本ペンクラブが復興会議を招集。十月、川端による『雪国』の完結本が正式に定稿を迎え、同時に散文『哀愁』が雑誌に初出を飾る。
「……私は現実を信じない。現実そのものをさえ信じない」
静かに『雪国』を繙く。
傍観者であり、同時に当事者でもあるという矛盾を抱えながら、先生は一つの国家の興亡を見つめ、民族の自尊心の盛衰を悟った。あの言葉が洗練され、近乎吝嗇(吝嗇に近いほどに切り詰められた)とも言える、板蕩たる詭譎の異色の時代。川端の文字の中に軍国主義は見当たらず、政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)もなく、左翼の文豪たちが戦争の生んだ惨状に対して浴びせる厳烈な糾弾からも、彼は潔癖なまでに距離を置いていた。
八万字に満たない中編作品。新潟の芸妓と、東京からやってきた知識人の男。そこに添えられた、曖昧で不鮮明な時間軸(おそらくは先生の執筆上の筆誤であろう)。虚無的で、現実離れした、あるいは一種の頽廃的な唯美主義。物語に登場する人物たちは、まるで川端の意識の中に浮かぶ透明な幻影のようであり、景物もまた、夜の闇に紛れて捉え難い朦朧たる暗流のようである。両者は一つに溶け合い、人世を超越した象徴の世界を描き出す。それは注定(約束)された失敗であり、失敗へと向かわねばならぬ愛の物語であった。しかし、だからこそ、それは不朽の古典となり得たのである。
何より、先生は一介の男の身でありながら、その筆によって女性という存在の内面の百景――喜怒哀楽、悲歓離合、その癲狂(狂気)さえもが極致の美へと昇華する様――を細やかに描き出してみせた。書物を前にした我々は、ただただ感嘆するほかない。入木三分(骨にまで徹するような)の筆致。まるで、自分自身がその人物へと化身していくかのような錯覚を覚える。喧噪に満ちた煩わしい東京を離れ、絵画のように美しい雪国へと足を踏み入れる。しかし、雪の色はその場所に達した瞬間、一面の暗闇へと呑み込まれていく。問うてみよう。「雪国」は、本当に存在したのだろうか?
それとも、現実世界の外側にある、鏡の中の倒影に過ぎなかったのだろうか。
「雪国」はどこにあるのか。それは、厭世と諦念を抱く者の心の底、国境の長いトンネルを抜けた、その先にあるのだ。
XXX
「おい!お前は何を書いているんだ?お前の個人的な『感覚』か?うちは書棚に並ぶ文芸雑誌であって、図書館の哲学ジャーナルじゃないんだぞ!馬鹿野郎!少々高尚ぶるな!」当時、原稿用紙を引っ掴んだ編集者が火に油を注いだように怒鳴り散らしていた。しかし、新潟の落日がもたらす末世の雪景色の前では、私はあいつの言葉を、一字として耳に入れることはできなかった。耳の奥に微かに響いてくるのは、三味線の音だけであった。
XXX
昭和二十三年(1948)五月、『少年』の雑誌連載が始まる。一ヶ月後、川端は日本ペンクラブの第四代会長に就任した。
京都を舞台にした作品『古都』が、昭和三十六年(1961)十月、朝日新聞紙上で連載を開始する。しかし、この執筆の過程において、川端が服用する睡眠薬(鎮静剤)の回数と分量は増え続け、重篤な離脱症状(昏睡)を引き起こすに至った。十年前に発表された、日本の茶道文化をめぐる『千羽鶴』とは異なり、先生の筆風がより円熟し、洗練されていくにつれ、『古都』の中に描かれた京都の伝統的な祭礼や四季の風雅は、千年の古都を紙の上に鮮やかに躍らせた。そこに付け加えられた、どこか神秘的な数筆の彩りは、日本独自の「幽玄の秘」を深く刻みつけている。……それはまるで、現実世界に対する失望の現れのようでもあった。
来者如帰(訪れる者を我が家のように迎える)、中京区に佇む「旅館 柊家」。そこは先生が京都で執筆活動を行う際の定宿であり、文豪が『古都』を書き上げるための、神聖なる神殿そのものであった。
「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため.」
西元1968年(昭和四十三年)10月。四年前に開催された東京オリンピックの成功が、大和民族を再び地球村の抱擁へと連れ戻し、日本が廃墟の中から力強く復興を遂げた奇蹟を世界に証明した。その直後、スウェーデンの「ノーベル賞選考委員会」は、先生の代表的な三つの小説『雪国』『千羽鶴』『古都』を主体とし、その著述内容が「精確且つ繊細に日本人の豊かな感情を表現しており、それぞれの物語の叙述様式が極めて卓越している」(for his narrative mastery, which with great sensibility expresses
the essence of the Japanese mind)という理由を以て、世界の文学界における最高峰の栄誉であるノーベル文学賞を川端先生に授与することを決定した!
(後に公開された内部の機密資料によれば、西元1961年からすでに、川端先生は何度も文学賞の候補者としてノミネートされていたという。)
北疆のさらに北にあるストックホルム(Stockholm)。川端は真摯で飾り気のない文字、幾度でも読み返したくなる篇章の段落を携え、同年12月10日、厳かな授賞式に臨んだ。そして二日後、日本語による記念講演を行い、聴衆に向けて自らの心にある高潔な「美しい日本の私」を語った。それは、虚空(無)を内包する世界観であり、永遠に滅びることのない心の宇宙であった。
そして先生の手に渡ったノーベル文学賞は、日本人作家として初の快挙(二人目は大江健三郎先生)であっただけでなく、インドのタゴール(Rabindranath Tagore)、イスラエルのアグノン(Samuel Josef
Agnon)に続き、東洋の作家として三人目の栄冠であった。多くの西欧の読者たちは、「KAWABATA」(川端)という日本語の名前を知ることを契機として、東瀛の文字の美しさ、和の文化の妙味、さらには、欧米のキリスト教信仰とは異なる、大和民族特有の生死観と美学意識を垣間見ることとなったのである。
「The single
flower contains more brightness than a hundred flowers.」(一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせる。)
昭和四十五年(1970)五月、川端文学研究会が発足。
一ヶ月後、川端先生は相次いで台湾(台北)や韓国(ソウル)へと招かれ、年度作家大会への出席や特別講演を行った。各地の文筆家たちは、大師に向けて最も崇高な肯定と称賛を惜しまなかった。同時に、数々の名作が再び映像化される段階へと入っていった。
しかし、
同年11月25日の午後。政治家であり美術品収集家でもあった細川護立(その孫の護熙は後に内閣総理大臣に就任する)の告別式に出席していた川端は、青山葬儀所において、同世の名声を分かち合った作家・三島由紀夫が割腹自決を遂げたという、重大な急報を不意に受け取ることとなる!後輩であり、また無二の親友でもあった男の急死。それはまるで烏雲と暴風の如く容赦なく襲いかかり、一瞬にして先生から賞を射止めた喜びを奪い去った。往時の鬱悶たる内耗(葛藤)の性格が静かに這い上がり、その精神はかつてないほどの打つ手を失う打撃を受けた。
行年四十五歳。いまだ大いなる可能性を秘めた黄金の壮年期にありながら、三島が選んだ徹底的な棄世。それは一面において、自らの濃厚な軍国主義的思潮が軍部(自衛隊)から冷嘲熱諷を浴びせられたためであったが、他面において、噂によれば、彼は自分がノーベル文学賞の選考において連年挫敗した現実に耐えかね、自ら退路を断ったのだとも言われている。真偽のほどは定かではなく、八卦(ゴシップ)メディアや社会の世論は臆測の言葉に満ちていたが、生来の異常な敏感さを持つ先生は、万分の自責と悔恨に駆られた。後に、川端が自らの弟子たちに向かって、悵然としてこう漏らしたと伝えられている。
「介錯されるべき(首をはねられるべき)なのは、私の方だったのではないか……」
XXX
「ふん!間抜けめ!首をはねられるべきなのは、お前の方だろ!何を突っ立っているんだ?」編集者が洗面所から戻ってきて、冷やかしの言葉を浴びせながら、ズボンのジッパーを上げるのを忘れなかった。
XXX
翌年(1971)十月、川端の二人目の孫である明成(最初の男孫)が誕生した。新たな生命がこの未知の世界を好奇に満ちた目で見つめる姿を眺めながら、先生は、当時誰も気づくことのなかった、独り言のような呟きを遺している。「たとえ私が去っても、この子は五十になるまで、生活に困らないほどの小遣い(印税)を得られるだろうな」
なぜ、五十年なのだろうか。子平八字(四柱推命)が導き出した大運流年の巡り合わせか。それとも、『著作権法』において定められた、著作者の権利の保護期間のことであったのか。
しかし、後者の起算点となるのは、まさに……
「死は極致の美であり、死は一切の理解を拒絶することに等しい。生は死の対立面ではなく、死は生の中に潜んでいるのだ」
昭和四十七年(1972)三月、先生は身分が不相応であることを理由に、あらかじめ予定されていた揮毫(きごう)の依頼を辞退した。
四月十六日、午後二時三刻。自宅から車を呼び寄せて仕事場へと向かい、家族には「散歩に出かける」と言い残した後、……川端先生、これほどまでに栄誉を一身に集め、全世界から推崇された重量級の作家の肉体は、あろうことか、そのまま逗子市の海岸リゾートマンション「417号室」の内部において、永遠に停止した。……それは歿神(没神)が冷酷に鳴らした弔鐘であったのか、それとも文学者の運命とは、やはりこれほどまでに乖舛(悲惨)なものであったのか。一通の遺書も遺されないまま、先生はガス管を咥えるという驚愕の手段を以て、その生涯の幕を閉じたのである。七十二の寒暑は、ついに孤寂へと帰した。
まるで深い眠りについているかのような安らかな面容。机の上の睡眠薬の空瓶。生と死の間の激しい引き裂かれを、もはや誰も阻むことはできなかった。しかしこれは、先立つ後輩の足跡を追うための静かな足取りであったのだろうか。それとも川端は、いずれ訪れる肉体の腐朽と老衰を悟り、それをいさぎよく投げ捨てたのだろうか。
枕元に残された、開封されたばかりの「ジョニーウォーカー(Johnnie Walker)」。それは今、黙然として語る言葉を持たない。
翌年三月、川端康成記念會により「川端康成文学賞」が創設される。第一回の受賞者は上林暁であった。
大江健三郎は、小説『河馬に嚙まれる』を以て第十一回(1984)の受賞者となった。学生時代に「川端康成第二」と評された彼もまた、その十年後、西元1994年にノーベル文学賞の栄冠を射止め、東瀛文壇の二人目となったのである。
先生がその多くの著作の中で、絶えず暗示し続けた宿命の雰囲気の如く。人間は誰しも、あなたも私も、一切の縁ある衆生は、その生涯において必ずや「美しさ」と「哀しみ」の二つに包まれることになる。例外はない。……或いは「死」という二文字は、生来、超然たる文筆の徒にとって、世人が知るような浅薄な悪などでは決してなく、視点を変えれば、もう一つの形式における、尽善尽美(究極の完成)であるのかもしれない。
「自殺は決して恐ろしいことではない。自殺よりも恐ろしいのは、失望と厭世である」
英訳本『Beauty and Sadness』のタイトルを冠した『美しさと哀しみと』を振り返る。その文字の並びには、まるで疾うに予言されていたかのように、川端の筆が描く「愛と憎しみ」「喜びと悲しみ」が激突して生まれる矛盾が、この大千世界を永遠に縛り(絆(ほだ)し)続けるであろうことが示されている。
空寂と彷徨。それは雨上がりの軒先から滴る水の如く、規則正しい音が、心の底へと絶えず落ちていく。たとえ外の世界が、すでに眩い陽光に満ちていたとしても。
XXX
三枚の原稿用紙が突き返された。いや、正確には、クズ籠へと直接投げ捨てられたのだ。
立ち去り際、受付の薫子が私に一枚の紙幣を手渡した。編集者が前もって言い残していった、せめてもの「好意」だという。
XXX
しとしとと降るにわか雨が、四条通に赤や緑の入り混じる傘の花を咲かせている。祇園の夏至は、どこかいつもより悪戯っぽい。……痛飲して憂いを忘れるか?
ふん、今の私には「水割り」一杯を購う(あがなう)金すらない。
「清野君、いつものかい?」バーテンダーの声が、私の思考を遮った。
「ああ。ジョニーウォーカーを、ストレートで!」
喉へと一気に流し込んだ瞬間の震え。真昼間からの泥酔が、世間から中毒だの没落だのと指を差されることは痛いほど知っている。だが、今の私はもう、微塵も動じない。
「おい、一杯奢らせてくれよ」
「おや?今日はえらく羽振りがいいじゃないか。何か良いことでもあったのかい?」
バーテンダーは笑いながら、自分のグラスに「響17年」を注いだ。
壁のカレンダーを見つめながら、私は考えもせずに答えた。
「だって、6月14日は川端康成先生の誕生日だからな!乾杯!」
「なるほど、そいつはめでたい。不滅の川端先生に、乾杯!」
微醺(びくん)の朦朧たる意識の中、私は机の上に置かれていた、昨日発売されたばかりの文芸誌を何気なく手にとった。表紙に躍る題字が目に飛び込んできた瞬間、胸の奥を激しい痛みが突き刺す。
数秒の後、私は笑った。そして、泣いた。
『命の絆、生の悲哀』――川端康成の文学世界。
著:清野 義人
(完)

留言
張貼留言