シリーズ:《北緯42度のかげ》IV
i〈山田先生の死〉
ii〈捜査一課への挑戦状〉
iii〈Ноктундо〉
iv〈山田先生の死〉
XXX
Mr. Yamadaに捧ぐ
XXX
「狐がウサギの悲鳴を聞きつけたとき、奴は飛んでくる……だが、決して善意からではない。」
——トーマス・ハリス『ハンニバル』
XXX
![]() |
| 旧前田公爵邸、東京都目黒区、塚本靖、高橋貞太郎設計。 |
i〈山田先生の死〉
実業家の山田氏が日曜日の午後八時ごろ、残忍な手口で殺害された。事件現場は中目黒に佇む彼の邸宅である。当時、館には被害者のほか、山田夫人、シェフ、執事、家政婦、そして庭師の計六人がいた。執事からの通報を受けた警視庁捜査一課は急遽現場を封鎖し、死亡推定時刻の特定を進めると同時に、事件発生時の全員のアリバイと行動の聴取に乗り出した。
山田夫人(66)は深い悲しみに暮れながら語った。カモミールティーを飲み終えた後、一階の暖炉の脇でミステリー小説を読んでいたという。滅多にない豪邸での血の惨劇を描いたストーリーがあまりに面白く、夢中になるあまり、夫が二階の居間で息絶えていることには全く気づかなかった。熱い紅茶はスリランカから輸入した最高級のセイロンティーで、夫は普段客の接待用にのみ用い、自身で口にすることは滅多になかった。
シェフ(30)は目を真っ赤に腫らして語った。山田氏は彼女にとって最も尊敬すべき恩人であり長輩(ちょうはい)で、海外出張の際にも必ず彼女を伴っていた。夕食の献立である「タイ風グリーンチキンカレー ナンプラー炒めキャベツ添え」は主人が最も愛した主食の一つだった。特筆すべき点として、執事が今夜しきりに厨房を出入りしていたことが挙げられる。スーパーで新しく購入した調味料の風味が気に食わなかったらしく、調理台の脇でしきりに身振り手振りを交えて文句を言っていたという。
執事(60)は淡々とした口調で語った。山田氏とは二十年来の付き合いであり、腹を割って話せるパートナーの関柄だった。夜、明日の午前に浴室の修繕業者が到着する旨を主人に報告しようと二階へ向かったところ、すでに息絶えている主人を発見した。しかし、山田氏が熱い紅茶を飲むなど思いも寄らなかったと明かした。理論上、夕食後はいつも彼自身がストレートの「山崎ウィスキー」を用意するのが常だったからだ。ただ、シェフが身体を温めて安眠を促すために温かいお茶を勧めたらしく、それも一理あると納得していた。
家政婦(42)は白布を被せられ、物言わぬ屍となった主人を見つめ、静かにため息をついた。厨房で使い終えた食器や鍋を洗っており、今日の仕事も間もなく終わろうかという時にこの悲劇を聞かされたという。ウィスキー用のグラスは今夜も酒棚に残されていた。執事から厨房経由で二階の居間へ熱い紅茶を運ぶよう指示されたからだ。多少不自然には感じたものの、何ら怪しい点はないと思っていた。
庭師(59)は声を張り上げ、夕食後は温室で雑用をこなしていたと言い張った。なにせ年の瀬も近く、大掃除と新年を迎える準備は不可欠だからだ。しかし居間で何が起きていたのかは露ほども知らないという。ただ漏れ聞こえる噂として、山田氏が最近、家計支出の帳簿における過剰な計上項目に疑念を抱いており、ここ数日のうちに第三者の公認会計士を入れて監査させる計画だったようだ。
関係者への聴取を終えた捜査一課の鑑識官は、法医の鑑識手帳に目を通すと、ほどなくして犯人を逮捕した。
山田氏(72)は、シアン化カリウム(青酸カリ)中毒により死亡。
【読者への挑戦状】(中学生レベルの推理)
犯人は誰か?
犯罪の手口(トリック)は何か?
ii〈捜査一課への挑戦状〉
山田氏殺害の「容疑者」をパトカーに乗せた後、一課の幹部は振り返り、懇意にしている事件記者たちに報道素材の扱いについて注意を促した。上層部が求めているのは検挙率の向上だけでなく、刑事事件そのものの抑止だからだ。とりわけ歳の瀬のこの時期、「治安悪化」の四文字はこの先進国が諸外国に見せるべき第一印象ではない。
館内では、意図的に設定温度を上げられた暖房がどこか高圧的な威圧感を放っていた。白髪交じりの男が黒いボウタイを外し、深々と息を吐き出しながら思案顔で厨房へと歩を進めた。「水だ!」
もう一人の男——仕立てが小さすぎるのか、サイズの合わない白いシャツを着た男も、大股でやって来た。
「ふむ、今夜は確かに長い夜になりそうだな」
「ええ。この後も奥様と通夜や告別式の段取りを打ち合わせねばなりません。会社から若手専務たちも合流します。接待だけでも一苦労です。特に……あの人が欠けたとなると」
「ああ、そいつは苦労がかかるな。」ガッシリとした体格の男の脳裏をかすめたのは、実のところ企業の継承問題だった。
「刑事さん、喉を潤すのに冷たいお問でもお持ちしましょうか?」
返事を待つまでもなく、執事の本多は白い食器棚から客用と思われる極めて精巧なカットのクリスタルグラスを取り出し、冷え切ったボトル入りミネラルウォーターを幹部に注いだ。そして自身は、先ほど鑑識が終わったばかりの調理台から、迷いなく宝藍(コバルトブルー)のマグカップを手に取り、同様にボトルから水を注ぎ入れた。
「これは山田さんの会社が輸入している火山岩ミネラルウォーターですか? なかなか良い味わいだ」
「お褒めに預かり光栄です。ええ、わずか五人の貿易会社兼倉庫から出発した頃から、主人は長年にわたり世界各国の最高級ミネラルウォーターを独占輸入してまいりました。採水地を理解するために、わざわざ南米やオーストラリアまで現地視察に飛んだことも……はあ、あれほど情熱と活力に満ちた経営者が、まさかこんな目にあうとは……」
本多は言葉を詰まらせ、青いシルクのハンカチを静かにテーブルに置くと、彼もまた水を一口含んだ。
「ん……? え? これは……な……ウゴッ……!」
幹部が事態を把握し、眼前の異変に気づく間もなく、執事は重心を崩し、厨房のハイチェアから大理石の床へと激しく転落した。鈍い衝撃音が響き渡る。助けを求めるように切迫した視線は三十秒と持たなかった。電光石火の静寂の中、執事は主人の後を追うようにひっそりと息絶えた。何一つ言葉を残さず、ただ死の間際の恐怖と未解決の苦悶だけを遺して。
館に残っていた刑事たちは異常な音を聞きつけ、反射的に手を止めて飛ぶような足取りで音のした厨房へと駆けつけた。本多は仰向けに倒れ、両目は見開かれたままだった。その傍らにしゃがみ込んでいるのは鹿島警部である。彼は手慣れた手つきと、怒りを宿した眼光で、死者の最後の証言を汲み取ろうとしていた……。
「アーモンド臭……本多さんも毒を盛られたか」
「そんなバカな! あり得ません! 鹿島先輩、さっきの『容疑者』はすでに……」
家政婦の薫子が人の声に惹かれて控え室から歩いてきた。厨房のドアの前に立ち、本多の遺体を目にするやいなや、「キャッ!」と悲鳴を上げて両手を空に泳がせ、そのまま気を失って倒れ込んだ。
「一課への挑戦状だな!」鹿島は立ち上がり、苦笑いを浮かべた。白い手袋をはめながら、重苦しい面持ちでマグカップを直視する。その鋭い眼光はカップの縁と取っ手をなぞり、わずかな手がかりをも見逃すまいと彷徨った。無線連絡によれば、通知を受けた監察医が現場へ引き返してくる途中だという。「待てよ! これはなんだ?」
長年の使用によって文字がかすれているものの、「H.Y」という箔押しの筆記体イニシャルがはっきりと見て取れた。これは執事・本多の専用マグカップである。鹿島は呟いた。「計画殺人か? 標的を絞った指名殺人か?」
「屋敷にいる関係者全員を今すぐリビングに集めろ! 『第二の犯人』が現れた。いや、あるいは『唯一の犯人』は、まだこの山田邸の中にいるぞ! 急げ!」
XXX
a. 「もう何と言っていいか分かりませんわ……本多君と主人は長年の親友で、何でも話し合える仲でした。会社の多くの意思決定も本多君が協力して策定したものなのです。彩夏さんを主人に推薦したのも彼でしたわ。確か洋食店から引き抜いたとか。ですが今や二人とも……『犯人』が誰なのか、私には全く心当たりがございません。」
b. 「もう帰ってもいいですか? 誰が『犯人』かなんて聞かないでくださいよ。とにかく俺にはアリバイがある、そう言ったでしょ? ア・リ・バ・イ……! 俺はフジテレビの二時間サスペンスの主演でも脇役でもないんだ! クソッ! 犯人を捕まえるのは警察の仕事だろ!」
c. 「私は無実です! 本当に無実なんです! 私の山田先生に対する敬意と崇拝は、企業の経営面だけではありません。男女の情愛においても、私はこれほど真摯にお付き合いをしていました……ええ、愛していましたし、今でも愛しています! 私が『犯人』ですって? なぜ洋子さんの殺害動機を疑わないのですか? 彼女は私と山田先生の曖昧な関係を知っていながら耐忍していたのです。私に濡れ衣を着せて山田先生を謀殺する機会を待っていたのではありませんか? 分かりません! 私は無実です! 本当に無実なんです!」
d. 「『コバルトブルー』のマグカップは本多さんのものです。金箔押しの文字が入っていますから。私はよく本多さんにコーヒーやお茶を淹れて差し上げていましたので間違いありません。彩夏さんは良い人でしたし、本多さんも良い人でした。お二人とも愛知県のご出身だとか。確か本多さんが銀座の『カレイドスコープ』というバーから彼女を連れてきたと記憶しています。彼女の腕前は文句なしで、仕事も本当に手際が良かった……もちろん、私は主人の私生活に口出しなどいたしません。それは仕事内容とは無関係ですから。山田先生のマグカップですか? ええ、居間にあった『群青色』のものです……何でも非常に特殊な濃い青色だそうで、主人は時折、朝のコーヒーを飲むのに使っておられました。本多さんが取り間違えた? さあ……手元が見えにくかった時でしょうか?」
e. 「この質問に答えたら帰らせてくれますか? 分かりました。知っていることなら何でも話します。洋子様には大変良くしていただきました。学のない私を嫌うこともなく、荒仕事しかできない私に、よく温室まで足を運んで花草の剪定に付き合ってくださり、私の妻や子供の雑談に耳を傾けてくださいました。それに、彼女は生け花や植物の育成にも独特の見識をお持ちで、噂ではお父様が何でも……石井軍医? 石に井戸の井、石井四郎中将がハルビンに駐屯していた頃の頼れる腹心の一人だったとか……本当ですか? 皆さん、石井中将が誰なのかご存じなんですね。そういえば三日前、奥様のお使いで、青山にあるお兄様の河島教授のラボまで小包を受け取りに行きました。東大が新しく開発したバイオ有機肥料だとか……ええ、砂糖に似た感じのものです。小包の行方ですか? 温室にはありませんね……あれ? 奥様に聞いてみられては?」
f. 「『不自然』? もう少し詳しく説明しろと……ええと、考えさせてください。あの時、私は洋子夫人、本多さん、そして彩夏さんが調理台の脇で明日の昼食のメニューを相談しているのを見ました。どうやら大切なお客様が来られるようでした。それで彩夏さんが、主人に身体を温めるお茶を勧め、安眠を促そうと提案したのです……私がテーブルの上を片付け、熱い紅茶を載せたトレーを持って二階の居間へ向かおうとした時、厨房を離れてしばらく経っていた夫人がちょうど暖炉の方から歩いて来られ、頭が少し痛むので今すぐカモミールティーを淹れてほしいと私に言いつけました……『不自然』? もしかすると、私が紅茶を暖炉脇のサイドテーブルに一時的に置いたことでしょうか。洋子夫人は椅子に戻って読書の続きをしておられました……視線を外したか? 誰を疑っておられるのですか? 私ですか? お茶を淹れるには五分ほどかかります。まずお湯を沸かさねばなりませんから……読んでおられた本ですか? 『点と線』です! 北野武さんのドラマで見て、強く印象に残っていましたので!」
g. 「山田洋子さんの旧姓は河島です。もしや、かつて防疫給水部第二課で毒物検査を主導していた責任者、河島三徳少佐の娘ではありませんか?」
h. 「私は無実です! 本当に無実なんです! 何度でも言います、私は誰も殺していません!」
XXX
鹿島警部は珍しい骨董品でも愛でるように、銀色の手錠の鍵を回した。彼の前に並べられているのは、事件関係者の証言要約と、一枚の平らに伸ばされた……河島ラボの領収書明細である。数時間前に意図的に暖炉へ投げ込まれていた代物だが、そこに記された専門用語は、山田氏と本多氏の命案を覆う幾重もの濃霧を静かに晴らすには十分だった。
「連絡してくれ……」
【読者への挑戦状】(高校生レベルの推理)
犯人は誰か?
犯罪の手口(トリック)は何か?
iii〈Ноктундо〉
数拾万人の通勤ラッシュが始まる直前の静寂を突くように、黒と白のツートンカラーをまとったトヨタ・クラウンが東京の西南角を疾走していた。
停車位置を無線で報告し、呼出符号を切る。山手通りから慎重に野沢通りへと舵を切ると、前方から特殊な青藍のペイントを施された最新世代のフェラーリ・アマルフィが迫ってきた。金髪に染めた若きドライバーは、パトカーの接近に一瞬意外そうな顔を見せ、口の中でぶつぶつと呟いていたが、すぐに本来の自信に満ちた表情を取り戻した。
「目立ちたがり屋め。時代は変わったな。若い奴らほど人生の楽しみ方を知っておるわい」
助手席の西村は、信号が変わると同時に高らかに響き渡ったスーパーカーの排気音を無視し、傍らの先輩による羨望と皮肉の混ざった愚痴も聞き流した。彼は左手を伸ばし、脇の標識を指し示した。「次の交差点を右折してください」
膝の上で、少し傷みの目立つ黒革の手帳を再び開く。山田京一、山田洋子、本多志雄、酒井彩夏……といった名前が黒のボールペンで几帳面に記されており、そのうち「京一」と「志雄」の二名には、殴り書きのような赤丸が二重に付けられていた。機密文書庫の防湿作業は、歴史を封印するための物理的な処置であるだけでなく、人の心の測り知れぬ険悪さと卑劣さを無言で物語っている。一人につき一つの化学式。窓の外へ深く息を吐き出しながら、西村は思った。年末の休暇前に本庁で事件を解決できなければ、二つの殺人の交錯により、忘年会の空気は法医解剖室のエアコンと同じく、実質温度が設定より常に10度以上低いものになるだろう、と。
情報管理課から収集された事件関係者リストのもう一編が手帳の最終ページに挟まれていた。そこにある難解な外国語の単語はすでに日本語に翻訳され、簡易な解説が付されていた。
「おい、西村の坊主、出番だぞ!」
XXX
「お疲れ様です!」
二人の巡査に軽く釈会(会釈)すると、西村は身をかがめて規制線の内側の現場へと足を踏み入れた。
「やあ! 西村警部じゃないか。この事件がやっぱりお前さんを呼び寄せたか!」
「お久しぶりです、鹿島兄(あに)さん……五年ぶりくらいですかね」
本庁の若手から「シロクマ」の愛称で呼ばれる、2メートル近い巨躯と老成した白髪を持つ刑事部参事官、鹿島警視正が歩み寄り、西村の手を力強く握りしめた。170センチほどの細身な西村と並ぶと、巡査たちの目には二人のやり取りが特撮映画の違和感、あるいはどこか滑稽な構図に映った。だが鹿島は気にも留めなかった。彼が巡査たちに聞かせたくない言葉があったからだ……。
「十年前の二重殺人事件と、この件が無関係であることを祈るよ。薫子さんが今も山田邸で勤めているとはいえな……」
「勿論です。あなたから電話を受けた時、私も流石に驚きました」
西村は黒縁メガネの位置を少し直し、ついでに髪を軽く撫でつけた。
「被害者は……」
「山田孝太郎。『孝行』の孝に、安藤琢朗だ。それぞれ山田国際貿易会社の代表取締役とその個人執事兼秘書だ。二人は長年の親友だった」
「ほう、十年前の事件と酷似していますね……で、大河内監察医は遺体を改めた後、何と?」
警視正は思わず大都会のスカイラインを見上げた。冬の陽光は緩やかに昇っているものの、日増しに冷たさを増す北風を拭い去ることはできない。彼はただ低く呟いた。
「分からん……」
XXX
一階のリビング、娯楽室、控え室は警察によって緊急の特別捜査本部へと模様替えされていた。鹿島が自ら本部長を務め、広報発表やメディアへの情報開示を一括して統制している。特に、かつて凄惨な殺人事件が起きた豪邸で再び不吉な事件が発生したとなれば、鮫のように血に飢えた民放の事件記者たちは他社に差をつけるスクープを狙い、全力で取材車を規制線の外に横付けしていた。カメラマンの望遠レンズは殺伐とした事件の密林に潜む猟銃そのものである。一方、SNS上のインフルエンサーたちは早くも尾ひれは尾ひれを付けて騒ぎ立て、煽情的なタイトルを躍らせていた。「中目黒豪邸連続殺人事件!」「山田家の宿命! 河島家の逆襲?」「名探偵・金田一耕助を探せ!」……。
「殺人事件をエンタメ化・映画化して何とする! 貴様が上手く対処しろ!」と電話口で激怒し、首相官邸へ事件報告に向かった大山警視総監も、この歳の瀬の厄介なヤマには頭を抱えていた。
西村は一人、娯楽室の黒いハイチェアに腰掛け、現場の捜査員が残した第一報のメモを読み進めていた。自由に飲めるボトルウォーターと繊細な洋菓子は鹿島が用意したもので、霞が関周辺から特別に取り寄せられた。かつて執事の本多が警察の目の前で惨死したような悲劇を二度と繰り返さないための配慮である。
前夜、事件が発生した際、山田家には計六人がいた。二人の被害者(山田孝太郎と安藤琢朗)を除き、現場にいた関係者は山田夫人、シェフの新野、家政婦の薫子、そして庭師の川田である。山田夫人からの通報を受け、捜査一課は例によって現場を封鎖。死亡推定時刻の特定を進めるとともに、全員に事件発生時の行動を申し開かせた。
山田夫人(51)は夫の死を知らされて動揺を見せつつも気丈に振る舞い、夕食後に薫子が淹れたブランデーティーを一杯飲み、その後は娯楽室でタブレット端末の動画配信を楽しんでいたと語った。人気俳優が主演する二時間ミステリーの原作ドラマで、舞台が北海道の「流氷館」だったこともあり、ドラマチックな展開とロケ地の魅力に引き込まれるあまり、夫と執事が相次いで二階の居間で亡くなっていたことには全く気づかなかったという。紅茶は山田貿易が独占輸入するセイロンの最高級農園のもので、少量採集・限定販売の逸品。時折自分で奮発し、薫子にスーパーで買い求めさせてブランデーを数滴垂らし、安眠用に飲んでいた。
シェフの新野(27)にとって、山田氏と安藤氏は尊敬に値する人生の先輩だった。料理の味付けに対するこだわりだけでなく、将来彼が独立する際に留意すべき点——資金繰りや労務管理についても適宜アドバイスをくれていた。「昔の山田さんや本多さんのことは知りません。私は山田貿易傘下の洋食レストランから出向してきた身で、一年更新、更新は一回まで。この屋敷での勤務も二年目になります」。何か奇妙な点は? 薫子さんがここ数日、厨房を出入りしていたことくらいだ。スーパーで買った調味料が気に食わなかったらしく、味が濃すぎるのか辛すぎるのか、調理台の脇で首を傾げながら身振り手振りを交えていたという。
家政婦の薫子(52)は、白布を被せられ無言となった主人と執事を静かに見つめ、九十度の深い一礼とともに二筋の涙を床に零した。それが彼女なりの最も真摯な別れの儀だったのだろう。薫子は自らを不幸な星の下に生まれた身、災いを呼ぶ存在だと語った。十年間に二度も殺人事件に立ち会うことになるとは。当時、彼女は厨房で食器や鍋を洗っており、夜の仕事が一段落したら日用品の買い出しに出かける予定だったが、その矢先に惨劇を聞かされた。山田氏と安藤氏は夜、しばしば居間で晩酌をしながら公務の相談をしており、二人とも日本酒を好んでいた。お茶類も選り好みしなかったが、今夜は二階へ酒もお茶も運んでおらず、遺体の指紋が残されていた洋式のブランデーグラスがいつ二階へ持ち込まれたのかは分からないという。
庭師の川田(49)は手袋を外し、警官に対して礼儀正しく語った。夕食後は温室で正月の準備用の花々の手入れをしていたという。一つには新年を迎えるための準備が必要だったこと、もう一つは山田氏が東山二丁目自治体の華道同好会の幹部を務めており、年末年始の花の交流会を欠かすわけにはいかなかったからだ。「私は二階の居間や寝室といった山田様のプライベートな空間に足を踏み入れることは滅多にございません!」。ただし、数週間前に安藤執事と山田氏の会話を偶然耳にした。一部の輸入商品の検査証明書に疑念を抱いており、違法な密輸に関わる内容だったようだ。山田氏は国会の議員知人に働きかけて説得を頼むつもりで、時期はここ数日のうちだったという。
黒革の手帳にある黄色ばんだ手書きの記述と一つ一つ照合・比較しながら、西村は思わず不気味な冷笑を浮かべた。やがて彼は最終ページの補足資料を取り出し、東北アジアのある地名に視線を止めた。
X X X
i. ロシアと北朝鮮の国境を流れる豆満江(図門江)の上に、「鹿屯島(ろくとんとう)」と呼ばれる島が存在する。ロシア名は「Ноктундо(ノクトゥンド)」、面積は約32平方キロメートル。鹿屯島は元来、朝鮮王朝の領土であったが、19世紀半ば、清帝国が北京条約に基づき帝政ロシアへ勝手に割譲した。昭和12年(1937年)、ソ連は島民の全住民を中央アジアへと強制移住させた。
解禁された戦史記録によれば、昭和14年(1939年)以降、大日本帝国陸軍関東軍防疫給水部本部の傘下にあった海林支隊(643支隊)は、反戦兵士や捕虜となったソ連の特務員を「特別輸送」の形で鹿屯島にあった秘密毒ガス実験室へと移送し、ルイサイトやツィクロンBなどの毒物テストに供した。そのうち、日ソの二重スパイを務めた高官級の軍人らは、支隊長・尾上の命によりタブン(神経ガス)の実証研究にさらされた。これはナチス・ドイツ占領下のポーランドにあったオルガノ社(Anorgana GmbH)に続き、世界で二番目にタブンの製造に成功した場所でもある。
昭和20年(1945年)8月、ソ連軍が満州へ侵攻し、赤軍が牡丹江へ迫る中、海林支隊の残存兵らは鹿屯島の抑留者に対する最終処理命令を受け、すべての建造物と実験書類を焼却処分した。
ii. 赤軍資料における鹿屯島の生存者:
中佐 Lev Маскировка(1910 - ?)、1945年救出、1950年失踪。
X X X
「二階へ上がります」
西村は赤い絨毯を踏みしめ、壁に掛けられたレンブラントの『ガリラヤの海におきる嵐』の複製画を見上げながら、鹿島に声をかけた。
「私たちもまた、嵐の中に叩き込まれているわけですね……」
iv〈山田先生の死〉
「ここはこちらと所轄の捜査員による入念なローラー作戦の結果、邸内には隠し扉、抜け道、あるいはタイマー式の毒殺・噴射装置の類は一切存在しないことが確認されています。また、被害者が生前に歓談していた際、居間のドアに鍵はかかっていませんでした。要するに、現場はミステリー小説によくある『密室殺人』ではなく、真犯人が周到に仕掛けたからくり仕掛けの殺人装置など存在しないということです。以上」
若いが口数の多いエリート幹部が、事件現場の概要を身振り手振りで捲し立てながら、西村を二階廊下の奥深くに位置する居間へと案内した。東京の現地では珍しいロシア・ネオクラシック様式で彩られた実業家のプライベート空間は、異郷の地に迷い込んだかのような不協和音と視覚的緊張感をもたらしていた。国際貿易がもたらす無遠遠界(境界なき世界の広がり)を象徴すると同時に、富豪と庶民との間に横たわる目に見えない距離感をも如実に物語っている。
西村は足を止め、第二の規制線で囲われた居間を見渡した。左側には小さなリビングを配したダブル仕様の主寝室がある。ドアノブにはロシア伝統の双頭のワシの豪華なレリーフが刻まれているものの、不釣り合いな金色のセンサー領域が異様な形で後付けされており、出入りは全面的にハイテクな電子カードキーへと改装されているようだった。右側には書斎、客室、そして主人の専用コレクションルームが順に並んでいる。駿馬に跨がり、勇猛に悪龍を退治する聖ユーリの全身銅像が客室の外の独立したスモールテーブルに置かれていた。西村の視線が周りを探索しているのに気づいた幹部は、すかさず補足した。
「こちらの三つのドアは現在も伝統的な鍵で開閉する仕様になっており、事件発生時もすべて施錠された状態でした」
「現在……というのは……」
「本部長が保管しておられます」
かつて公務の上で警視庁の幹部とともに訪れた総合商社の専務や社長の邸宅がそうであったように、山田の居間の配置は基本的には自信に満ちあふれた、世界地図と傘下の各支店所在地を融合させた戦略成果表そのものだった。時に海外輸送船の合計数や国内物流トラック隊の成長データが付け加えられ、さながら資本主義社会における企業の帝王が、国境なき壮大な版図の中で観兵式を執り行っているかのようだった。封建的帝政、ロマノフやシーザーの名を冠した者たちは、あるいは相次ぐ革命の火によって歴史教科書の中に閉じ込められ、現代の学徒たちの試験用データと化して久しい。しかし、地球規模の経理と貿易を統轄し、資源配分を牛耳る「資本家皇帝」たちが世界の舞台から静かに退場したことなど一度もない。高々肩書が総裁や取締役に取って代わられただけで、今なお冷徹にウォール街やシカゴで需要と供給の恐怖の均衡を操り、あるいは音もなく資源の強奪を引き起こしているのだ。
「ハバロフスク、ウラジオストク、ペトロパブロフスク・カムチャツキー……」
大小の赤点が描かれ、支社や事務所が区別された超大型の特大世界地図の上で、刑事の目を引いたのは台北やバンコク、デリーといった見慣れた地名ではなく、ロシア遠東連邦管区内に位置するいくつかの重点都市だった。ビジネス上の財務構造を除けば、繊細な地政学関係と日露両国の百年にわたる歴史的葛藤の中、なぜ山田国際貿易がこれほど深く食い込んでいるのか? 西村は思わず一歩前へ踏み出した。
「会社の公式ホームページに書いてある内容とは違うだろう?」
いつの間にか、鹿島が静かに西村の背後に立っていた。巨大な化け物のように不敵な笑みを浮かべ、手に持った金属の鍵をカチャカチャと鳴らしている。
「ええ、確かに山田のHPの記述とはかなりの隔たりがありますね。特にロシア全域の事務所は、意図的に隠蔽されているように見受けられます。ですが、私がより気になっているのは……『山田邸で一体何があったのか?』です。ええ、あるいはその答えは、私よりも貴方の方がよくご存じかもしれない。かつて所轄の駆け出し巡査だった頃の……十年前、いいえ! 四十年前まで遡るべきでしょうか。昭和六十一年、ここで起きた最初の殺人事件……『最初の山田先生の死』! 舞台裏で真相を隠蔽したのは誰なのですか? 鹿島兄さん!」
カチャカチャと鳴っていた不自然な鍵の音が、ぴたりと止まった。
「フフッ、流石は西村……『捜査一課の鬼』と呼ばれるだけのことはある」
鹿島警視正は次第に笑みを収めた。警察機構の高官でありながら、その鋭い双眸は昔と変わらず澄み渡っていた。彼は地図上のマークされたある地域——およそ北緯42度付近に位置する赤点を見つめ、古い思い出を辿るような口調で静かに言った。
「当時に山田家へ婿養子に入ったロシア人、Lev Yamada……レフ・山田氏のことか?」
「そうです。つまりソ連の機密文書において赤軍から直接『失蹤』と宣告された関東軍の最高幹部二重スパイ、陸軍中佐 Lev Маскировка……私の推論に間違いはありませんね?」
しかし、鹿島が答える間もなく、黒縁メガネを外した西村は、不意にこう投げかけた……
「ですが、私が最も不可解に思うのは、当時なぜ貴方が『山田家』の名を継がず、代わりに鹿島(Kashima)という和姓を選んだのかということです。単にМаскировка(maskirovka)の鏡像アナグラム(転写)だったからですか? それとも……なにせ、その最初の山田先生は、貴方の実の父親なのですから!」
「ハハハ、外事第一課のひよっこどもは、自分たちの『シロクマ叔父さん』をどう評しているんだ?」
西村と鹿島は互いに顔を見合わせて笑った。中目黒の殺人現場という空間はすでに第一現場ではなくなり、真の舞台は数千キロの彼方に定まったかのようだった。鹿島は振り返り、困惑の表情を浮かべている若い幹部に、階下の厨房へ行ってコーヒーを二杯淹れてくるよう静かに言いつけた。自分が飲むならもう一杯持ってきてもいいが、カップを取り間違えるなよ、と言い添えて。
「湯川教授がCMをやっているドリップ式のコロンビアは、人々の概念を根底から覆してくれたな」
二人は肩を並べ、居間の外にある白いプラスチックチェアに腰掛けた。警察が現場の証拠を荒らさないよう用意した休憩エリアである。凄惨な事件さえ起きていなければ、ロシア・ネオクラシック調の邸宅に素朴なパイプ椅子という組み合わせの矛盾は、まるで歴史的古跡や美術館のボランティア控え室のようであり、ガイドが四方から訪れる観光客を迎え入れようとしているかのようだった。西村はそんな想像を巡らせ、思わず苦笑した。
「昭和二十……西暦で話そうか。西暦1950年6月25日、朝鮮戦争が爆発(勃発)した。北の人民軍はT-34戦車と人海戦術で、南の大韓民国が持っていた脆い防衛線を急速に突破した。だが国連軍も引き下がらない。一週間後、駐日米軍が釜山に上陸し、烏山で初めて北朝鮮軍第四師団と交戦した……ああ、ありがとう。ここにもう一つ椅子がある。掛けたまえ、そう畏まらなくていい。『これだけ人がいれば、当分事件は起きんよ!』」
鹿島はまずコーヒーを一口含み、湯気の立つカップを見つめて呆然としている西村に冗談を飛ばすのを忘れなかった。
「翌年5月、朝鮮代表は国連安全保障理事会において、米軍が自国領域内で長期にわたり細菌戦を行っていると公式に打電した。中国側もすぐさまこの告発に呼応し、外交声明を発表した。米国が日本の旧『731部隊』の暗黙の協力と見返り条件のもと、各種の有害細菌を『兵器化』したと主張したのだ……そして、スターリンの認可を受けたソ連の国連代表マリクが、朝鮮戦場での化学兵器使用について米軍を猛烈に非難していたまさにその時、Lev Маскировка中佐はシベリアのシャラシュカ(Sharashka)から秘密専用機でモスコウ(モスクワ)へ飛び、そして……」
「あの……長官、お話を遮ってすみません……『シャラ何とか』って何か検索させてください……えっ? 科学研究と技術開発を秘密裏に行う刑務所付属の実験室ですか?」
西村は口を挟まず、鹿島が物語の登場人物を歴史の足跡の本筋へと連れ戻すのを待った。手のコーヒーはすでに半ばまで減っていた。
「参謀本部で三日間過ごした後、Lev Маскировка中佐の専用機は再び飛び立った。ソ連部長会議の当初の計画では、便の目的地は中国黒竜江省の海林市……つまり旧関東軍防疫給水部本部643支隊の駐屯地だった。だが、中佐の乗ったリスノフ輸送機(Li-2)は、結局牡丹江の海浪空港に降り立つことはなかった……」
物言わぬ聴衆の如く、聖ユーリの銅像は冬の日の光を浴びて、その何とも言えぬ尊厳と絢爛さをいっそう際立たせていた。とりわけ瞳を彩るサファイアは、西村に鹿島警視正と竜退治の英雄とを重ね合わせずにはいられなくさせた。二人はともに、生まれながらの蒼い双眸を持っていたのだ。
若い幹部は集中して電子地図を開き、七十数年前の中佐の時空軸に追いつこうと必死になっていた。
「中佐の飛行機は……」
「最後に確認されたのは、北緯42度47分、東経141度39分の千歳空軍基地だった……」
「その日の夜、彼はアタッシュケースを手に、一人で当時すでに閉鎖されて久しかった函館市の旧ソ連領事館へ足を踏み入れた。二階の居間——そう、外にそれぞれロシアの双頭のワシの銅像と、聖ユーリの精巧なレリーフのドアノブが飾られたあの豪華な居間で、Lev Маскировкаは再び宣誓し、日本保安庁へと復帰した……立ち会ったのは、土居明夫中将だ」
「長官! 階下へ行って、またコーヒーを淹れてきましょうか?」
(未完待続)

留言
張貼留言